デザイナー二人展より城谷耕生を偲ぶ
ボンジョルノ☀︎トミタリアです。
本日は旧友のお話。
1993 長崎の友にミラノで会う
城谷耕生が不在となって はや1年が
過ぎました。
自分より若くして逝った人を想う時、
生前に命を削って為したコトを考え、
我が身にも迫る死の靴音を高らかに
聞きます。残された貴重な時間。
#koseishirotani è mancato proprio
x 1anno.
#tomitakazuhiko prega sua #felicita li
e lo apprezza sempre che ha fato
nascere le buone #idee x trovare la
strada giusta, con le tante persone
importante x la vita.
ミラノサローネ期間中に、彼の勤め先ショー
ルームで出会った、運命の1993年春。
それからDUE NAGASAKINI展までの2年
余り、ミラノ-長崎周辺で、在住や旅行中の
本当にいろんなヒトに会い、その多くは
彼からの紹介か、紹介者のまた紹介でした。
自分ではまったく違うと思っていても 顔、
特に太い眉毛の印象がそっくりで、同郷だし
兄弟同然との評価が主流。
(彼は年下ですが もちろん兄貴分)
意気投合した親密な仲間とのコラボレーション
や、グループ展に参加し、そのパフォーマンス
を肴に一緒に呑んだり食べたりしました。
コスモスを生む源泉はカオス
朝から晩までワイワイガヤガヤする中で、
初期作品群が生まれ、創作によって作家
としても人間としても、成長もします。
デザイン-アート-パフォーマンス-音楽が、
ごちゃ混ぜで やや支離滅裂になっても、
パワーで押し切る強さがありました.
そういう時の若さって、本当に最高です。
第三者の心をわし掴みにするのは、
お膳立てもさるコトながら、粗削りにせよ
「伝えたい」 強烈な意思の 堰を切っての表現。
命がけの大いなるチカラ。
デザイン思考は、文脈や素材-道具-媒体-
組み合わせを変えるコトで、他の領域に
活かせるのだと 深々と実感しました。
そして損しないくらいに 持てる人々から
資金を募ったり、お礼をしたりする重要さ。
クリエーティビティの裏事情を学んでいく、
貴重な体験の連続でした.。
城谷耕生の、自分の楽器で音楽を奏でて、
ジャズのセッションまでこなす才覚に、
目を見張りました. 実際 DUE NAGASAKI展
に並行してMILIONE(東方見聞録の原題)と
銘打ったコンサートを開催しました。
イタリア在住の音楽家5人に、ナガサキを
テーマに作曲を依頼、新楽曲を長崎ゆかりの
ミュージシャンに生演奏してもらうのです。
もちろん、彼のトロンボーンのパートも
ありました。
FENICE(火の鳥)という、戦後被爆50周年
祈念モニュメントは、私が家族同然に
世話になっている、彫刻家に依頼しました。
けれどスポンサー探しやPRについては、
城谷の手腕に負うところが大きかったの
です。故郷である雲仙小浜を中心とした、
ネットワークのチカラは圧倒的でした。
要となるヒトが要所に配されて、みんな
がいい気持ちで積極的に関わりを持つ。
かけがえのない、すばらしい能力でした。
DUE NAGASAKINI展を総括する
そういう意味で、DUE NAGASAKINI展を
総括するなら、城谷耕生はデザイン展-
石彫モニュメント-写真展-音楽コンサート
という、領域をまたいでの国際イベント
の総合プロデューサーでしょう。
私は彼の采配のもと、彼がデザインして
くれた空間に作品を並べ、テキストや
ポスターを掲げる、デザインパートナー
という役割分担だっだでしょう。
戦後被爆50周年という機会は、一生に一度
しか来ない、まさに一期一会です。
長崎出身と言えば、負の遺産のおかげで
世界の隅々に至るまで誰もが知っています。
戦争を知らない子供たち世代にとって、
国際平和都市はいつまでか。
在留クリエーターのひとりとして
国際創造都市への変貌は可能なのか。
そう問いかけるコトは使命だと思いました。
同郷の駆け出しコンビではあったけれど、
その瞬間にあれだけの人々が心をひとつに
のぞむ、スケール感も含め、離れ技としか
形容のしようがない、国際交流一大イベント。
私の場合、英国留学時代の友人で大恩人の
グレンとアンマリー、卒業制作のピアノ完成
をバックアップして頂いた ケンブルYAMAHA
の仲道社長(仲道郁代さんのお父上)も、ご来崎
になりました。
関わったすべての人々にも、新たな未来像の
模索はきっと魅力的であったと思うのです。
人生に意味があるコトを実現すれば、次に
何をすべきか、よりはっきり見えてくるもの。
その繰り返しがすなわち人生です。
学んだ最強の動詞、そして誓いを新たに
横展開が得意な城谷耕生に学んだ、最強の
動詞は、 「つなぐ」と 「ひろげる」です。
大恩人の最大の功績は、イタリアと日本を
人と人を「つなぎ」、世界に「ひろげる」コト。
不可能ではないまでも、彼無くしては
その考えにたどり着くのに、相当に時間が
かかっていたはずなのです。
毎年12月になると 必ず君を思い出し、
西南に合掌します。
命をつないで生きようと、誓いを新たに。
KOSEI、心からグラッツィエm(_ _)m