私がイタリアを活動拠点にした理由

ボンジョルノ☀︎トミタリアです。

私は千葉大学意匠科を卒業した後、
イギリス・ロンドンにある国立大学の
ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)へ留学しました。

私がイギリス留学を選んだ理由

ボンジョルノ☀︎トミタリアです。 私は千葉大学意匠科を卒業後、イギリス・ロンドンにある国立大学ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)へ留学しました。 大学卒…

その後、無事にRCAを卒業し、
留学先のイギリスではなく、また日本ではなく、
イタリアを活動拠点にしたのか。

せっかくイギリス留学して、イギリス生活にも慣れた
のだからイギリスを拠点にしても良かったのですが、
私はイタリアを活動拠点に決めました。


そして、前述のブログで述べてありますが、
日本での就職は考えていませんでした。


イタリアを活動拠点に決めましたきっかけとなった
ある出来事があります。

奨学金給付対象者=優秀学生として

その出来事とは、優秀学生としてを奨学金給付を受けたことです。

私がRCAの試験を3月に受け、
4月に合格通知をAIR MAIL(エアメール)で受け取り、
そして7月イギリスへ移住しました。


7月から9月入学するまでの間、1つ上の先輩たちに尋ねました。
「学費に困った時はどうしたら良いですか?」

すると、先輩から想像もしていなかった回答が返ってきました。

「今度入学する新入生で優秀学生リスト(つまり奨学金を受けれる生徒リスト)に、
確か富田くんの名前があったよ。」

優等学生という言葉にあまりの驚きと喜び!!
そして、、、学費の心配が少し軽くなりました。

イタリア家具Cassina(カッシーナ)からの奨学金

RCAの優秀学生に奨学金を出してくれる会社は幾つかあります。
世界中から有望な人たちが集まる学校なので、
美術・デザイン関係社からの学校への注目や期待も大きかったと思います。

そんな中、優秀学生として奨学金を受けることができた私。

私は、イタリア家具 Cassina(カッシーナ)からの奨学金を受けることなりました。

後にわかったことが、Cassinaが奨学金を出したのは、前も後もこの年だけでした。

運に恵まれていたようです。

Cassinaデザイナー「ヴィコ・マジストレッティ氏」

Cassinaから奨学金が出たのも、この年だけだったのは
前述した通りですが、

では、Cassinaが奨学金を出すことになったのはなぜでしょう。

これも後にわかったことですが、
Cassinaでたくさん仕事をしていた建築家「ヴィコ・マジストレッティ氏」

”あの学校は優秀な生徒がたくさんいるから、奨学金を出したら”

とMr Cassinaに提案したからです。


この事実は、のちに私がヴィコ氏と一緒に過ごした時代があるのですが、
その時代にたまたまRCAが話題となり、本人の口から聞きました。
彼の自宅で、ネッリ(ランチ係)の美味しいパスタを食べたあとでした。

デザイナー「ヴィコ・マジストレッティ氏」は、
RCAの非常勤講師をしており、学期ごとにやってきては、
「トム(私のこと)には、力強いサインがある。」と言ってくれました。

他にもRCAにも面白く優秀な教授陣は存在しますが、
注文が厳格な上、難解な授業も多いのです。

そんな中 ヴィコはニコニコ机を回ってきて、何やってるのかと
興味津々に聞いてくれ、ポジティブで的確な論評に
大いに勇気が湧いたものでした。

イタリアを活動拠点にする

RCA卒業後、私はイタリアを拠点に活動することを決めました。

第1学年を終了した夏休みに2週間ミラノに滞在しました.

・奨学金を出してくれたCassinaがあるイタリア

・いつも勇気づけてくれたヴィコを訪ねてのイタリア

・旅行の際も楽しくおおらかな感じのするイタリア

入学時の「奨学金」に対する感謝の想いは大きかったのでしょう。
留学ののるかそるかで、私を救ってくれた出来事ですから。

自然とイタリアへ関心が高くなり、光を感じたのでしょう。
もちろん、イタリアへ恩返しをしたいという想いもありました。

以上、私がイギリス留学後、イタリアを選んだ経緯です。

あとがき

RCAの第1学年修了後の夏休みにイタリアを訪ねました。

Cassinaにお礼を言いにと、ヴィコ氏を訪ねたくて。

Cassinaを訪問しました。

ー「どこの誰?」

ウマの骨をあしらう反応に、軽くショックを受けました。

Cassinaは、誰に奨学金を出したのか まったく
把握していませんでした。

次にヴィコ氏のスタジオを訪ねました。

ー「まあ頑張ってね」

と軽い感じの反応でした。

その後、私は尊敬するヴィコのスタジオに
彼から呼ばれたわけでもないのに、何度も
足を運びました。唯一の助手モンテッラ氏にも
名前も顔も覚えてもらいました。

そうするうちに、
ヴィコがこの私を気に入ってくれたようで、
アシスタントでもなく、雑用係でもなく、作家と書生の
ような不思議な関係となり、ヴィコが要望に応えきれない
工場に僕を送ってくれました。それがLaboratorio
Pesaroであり、Rorstrandでした。

そのような日々のある日、
ヴィコと二人で、ランチ係のネッリがつくった美味しい
パスタを食べたあと、エスプレッソを片手にたまたまRCA
の話になりました。 そう言えばとヴィコがMr Cassinaに
進言したことがあったと、奨学金の驚愕の事実を知ったのです。

在学中に教授陣や秘書のテレーザに訊いても、誰も知らず、
誰が私を勝手に推薦してくれ、判を押しそのことを決めて
くれたのか、まったく分からずじまいでした。
それが卒業後12年を経て突然に偶然に、
あしながおじさんは目の前にずっといたと分かりました。

誰に白羽の矢が当たったのか知り得たのは、彼だけです。
私に期待してずっと勇気付けてくれたのも、今にして思えば、
自分の携わるカッシーナ社が 後押ししていることから、
親近感が生まれてのことだったのか。


私はそれ以降、
心の中でヴィコのことを「あしながおじさん」と呼んでは、
感謝しながら、彼の傍で彼の許す限り、訪ねてくるクライアント
との話に耳を傾け、求められるままに意見をしたりしました。
今年のミラノサローネどう思ったか?と問われて
例年に比べると 新しい動きが感じられた云々と答えたところ、
TVのインタビューでまったく同じ質問を受けていました。
(おそらく彼は恒例のオウムのような質問に辟易していた。)
答えはもちろん 「例年に比べると 新しい動きが感じられた」

そして、ヴィコとの出会いと学びが、
半生イタリアでのデザイン活動の原動力となった
と言っても過言ではありません。

ヴィコ氏との思い出話をは、
またいつかお話したいと思います。

🇮🇹 ciao 🇮🇹